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備忘録(久美浜の歴史など)

admin - 投稿 2010-2-2 - 更新 2010-2-2 - 閲覧:2535 - 拍手:7 - コメント:0

■1666年

久美浜が天領(幕府直轄領)となったのは、寛文6年(1666年)から。
当時、代官所は京都府加佐郡にありました。

代官所が、久美浜町の湊宮の地に移されたのは、久美浜が丹後・但馬の中心地であったこと、小西家を中心とした海運五軒家が、旭港を拠点として活躍していたことから年貢輸送などに便利な場所にしたと考えられています。

★湊五軒屋:
丹後・但馬海岸の中心にあった久美浜はかつて小西家を中心とした廻船業で栄え、天領時代には久美浜代官所が置かれていました。
廻船で栄えた久美浜には、本座屋(小西家)、新屋・下屋(小西分家)木下、五宝などの五軒家と呼ばれる豪商達がいました。
日本海に面する湊宮地区では戦国時代から江戸時代末期まで、「湊五軒屋」が回船、両替、酒造業で隆盛を極めた。
いずれも間口が20間から30件奥行きが一町ありました。本宅、離れ座敷、隠居、土蔵、納屋、門屋など30棟の建物が建ち並んでいたといいます。

★久美浜 小西家
小西家は五軒屋で一番早くから湊にあり
祖先は、小西隠岐の守盛信。宮津の見衆参におつかえになっていました。
一色家の家来で、勇猛果敢な豪傑でした。一色家が滅び、一色、松井佐渡守に仕えました。
慶長5年攻め来る石田勢を防ぎきれず、武士をやめて民間人になったといわれています。

家康当時の自由貿易政策に乗じて、湊を本拠地にして満州、朝鮮に出航し、多大な利益を得ました。ぎょ柳(ぎょりゅう)という木がありますが、当時中国との交易でもって隆盛を極めたものの名残りといわれています。その後鎖国になり、当然国内の交易に転じ、奥州の若松藩に塩を送り、塩を用立てるため塩田を瀬戸内、三田尻に作ったりしました。直江津などにお金の融通もしていました。

★久美浜 一色家について
丹後の守護となって、建部山(舞鶴市)に城を築いた足利泰氏。この4男公深(きみふか)が一色の姓を名のった。 足利泰氏−公深(一色氏)−範氏−範光−詮範 範光は父範氏、子詮範とともに足利尊氏に従い、九州に下って諸処で勤王の軍を破り、尊氏再挙の基を開いた。尊氏はその恩賞として、範光父子に丹後一円を与え北の守りに当らせた。

一色範氏の子、範光は加佐郡八田(舞鶴市)に館を構え、子の詮範とともに守護の職につく。

直氏の弟でもある範氏の子範光が、斯波高経失脚後の若狭守護に任ぜられる。斯波氏は足利一族の名門でもあり、幕府創設の功臣でもあったが、尊氏没後二代将軍義詮は斯波氏の勢力伸張を警戒し、これを失脚させ、斯波氏が守護を勤める越前・若狭・越中を没収し、一色範光を若狭守護とし、同時に修理大夫に就任させた。

山名満幸により詮範は降参した。一色氏は建武3年以来の丹後の国全部を失った。
山名満幸は、一色詮範が足利将軍と同じ家柄でありながら、謹慎し、
与謝、加佐、中、竹野、熊野郡の豪族や奥丹後(中、竹野、熊野郡)の諸将は一色氏に好意的であったので山名の陣代として吉原山にとどめ、奥三郡の支配を代理させた。

一色詮範は明徳の乱での功績で丹後守護になり税所今富名を得て、若狭の一元的支配権を得る。

1406年詮範没。子の満範が若狭、三河、尾張二郡の守護を引継ぎ、丹後と合わせ3ヶ国2郡の守護となる

1409年満範没。子の義範(義貫)が実質支配する。

1440年幕府にそむき5月15日、義教の命を受けた武田信栄らにより討たれる。

1450年子の一色義直が丹後の守護になる。
1451年親族の遺領丹後と北伊勢の守護職を継ぐ。
1467〜1477年 応仁の乱
1498年一色義直の子、一色義秀、国衆の叛乱が相次ぎ、5月29日丹後国普甲山で自害。
・一色義遠の子、義有、自刃した先代の一色義秀の跡を継いで当主となった。
1560年桶狭間の戦い
1582年本能寺の変
・一色義俊(義定)、9月8日宮部城に赴いたところを、長岡(細川)藤孝にだまし討ちにされる。
一色家の最後
弓木城には、義俊の叔父吉原越前守一色義清が主従百二十騎をつれて入城した。

家運つきて城を枕に死ぬることは、いささかも心残りとは思わない。建武3年、我が先祖の尊氏公が将軍の職につかれてから、義昭公に至るまで十五代、一色の家は八代、その間242年、将軍の一族の列に加えられ、丹後の守護を賜った御恩は、我が一色一族、悉く生命を義昭公に捧げるともどうして惜しかろう。しかし、今天下は、平民である織田信長に奪われている。我々足利源氏の一統は、信長の家来となる理由はない。それを世間の者が、足利の残党などとけがらわしい名で呼ぶのが口惜しいのだ。
しかし、細川が丹後の守護に任命されてから5年間、一歩も国をゆずらず、明智、細川の連合軍と戦って勝つこと二十三度、そのため和睦もし、縁者ともなって、両家が並んで丹後を支配すること2年・・・。これが足利家に対するせめてもの御恩返し・・・。この気持ちは末代まで人々が汲み取ってくれるであろう。籠城の面々、どうかこの義清と生死を共にし、潔く討死してもらいたい」と、いった。これをきいた城内の将兵は、あっぱれ九代の大将であると感じ合った。
義清は名を一色五郎義清と改め、義定の形見の家宝の鎧兜をまとって戦場に出ることにした。


★久美浜 稲葉家について
豪商稲葉本家(久美浜町土居)
上記の湊五軒屋とは時代が離れ、江戸時代の新興富豪ともいえる。
稲葉家は、織田信長家臣、美濃の稲葉一族、初代善兵衛が岐阜稲葉山の稲葉一徹の分家に生まれ、武田信玄に対抗して敗れ久美浜に居を移したと言われている。その後、酒糀の製造販売を手がけ屋号を「糀屋」と称し、6代目からは回船問屋として財をなした。8代市郎右衛門の頃には、両替商として付近諸藩の金融を一手に引き受けるほどの豪商になった。この時代に弟や、子を中稲葉(酒造)、東稲葉(酒造)、豊岡稲葉(麻縄製造)、西稲葉(酒造)に分家させた。酒造は「久美の浦」として今も受け継がれている。

 稲葉家初代、善兵衛は、岐阜稲葉山の稲葉一徹の分家に生まれ、武田信玄に対抗して敗れ久美浜に居を移す。
 稲葉家6代目、回船問屋として財をなす。
 稲葉家8代、市郎右衛門は、両替商として付近諸藩の金融を一手に引き受けるほどの豪商になった。

 稲葉家12代、衆議院議員も務めた市郎右衛門英裕(1846−1915年)が国会開設運動などに携わっていた
 稲葉家13代、市郎右衛門(1882―1954年)は、巨額の私財を投じて旧国鉄(現北近畿タンゴ鉄道)宮津線豊岡・久美浜間を開通させた
 稲葉家14代、岡山大学で教授


はじめ一色氏の家臣だった小西家は、武士の身分を捨て徳川家康の自由商業時代に朝鮮半島や中国大陸との国際貿易で巨利を博し、鎖国以後は北前船による沿岸貿易に従事し酒造業や金融業へと事業を広げます。
幕藩体制が揺らいだ幕末に各藩は久美浜の五軒家から借金を行いますが、明治維新を向かえて借金は不良債権となります。明治政府は暫定的な措置として五軒家に「五軒家札」の発行を認めますが、明治5年の発行禁止による取り次ぎによって久美浜商人の没落が始まりました。


船見番所がおかれ諸国の廻船や御城米入津のときの改めなどを行っていました。
享保16年(1731)より、湊宮陣屋での仕事が始まりましたが、さらに陸上輸送に便利なところが必要となり、海を生かしながら陸上輸送に便利な久美浜に代官所が移されました。(久美浜小学校付近)

■幕末〜
久美浜縣

丹後・但馬・丹波の三丹地方は天領であったことから、幕府勢力が強いとみられていました。
そこで、倒幕側は「山陰道鎮撫総督」を派遣、西園寺公望が総督に任ぜられました。鳥羽伏見の戦いの戦火が静まる事ない慶応4年1月、一隊が通過、本願寺・稲葉本家に分宿し、代官と談判しました。

2月になり、「官軍出張所」となり、長州藩士小笠原美濃介が代官領内支配権を委任されました。

■1868年
久美浜縣設置
慶応4年(1868)5月、正式に久美浜縣が設置。権知事伊王野治郎佐衛門来丹、官軍出張所から久美浜縣庁になり、丹後・但馬・丹波・播磨・美作の5カ国23万石を管轄しました。
久美浜縣庁…現在の城山(久美浜小付近)

縣庁が設置されると久美浜は活況を呈し、旅館は16軒から20軒に増え、商売を始めるものも多く、料理屋も繁盛しました。

■1871年
明治
久美浜縣廃止
5カ国の広い範囲を北端の久美浜に統治所を置くことは、若干の問題があり、旧生野代官所支配地を中心に強い反対運動を起こしました。

明治2年8月但馬・播磨の180ケ村が分割され生野県が置かれました。

分割は当時の中央政府の意に反することであり、合併をまとめるために、県庁所在地を地域の中央に移すことになり、明治4年(1871)11月「久美浜縣廃止、豊岡県設置」となりました。

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